朝井リョウさんの「生殖記」を読みました。先日、「イン・ザ・メガチャーチ」を読んだ時、その帯に「正欲」「生殖記」に続く・・・のような文言を見つけたので、どうしてもこの「生殖記」を読まなくてはと思っていました。で、この作品。様々な生物に寄生している?生殖器の観点から寄生主、今回の場合は尚成という30代の独身男性について語る形式をとっているけど、実は同性愛者。ただ、恋人はいない。自分が同性愛者であることを悟られないために、成果とか成長といったところから、少し離れたところに位置して、でも違和感を持たれないように、さも普通なように擬態する。とにかく生きていくためには経済力が必要なので、常に無難に仕事をこなし、でも、成長を指向していないので、その場を上手くやり過ごすことで対応するという生き方を選ぶ。同性愛をカミングアウトし、同性愛者の権利を守るために頑張る人もいるけれど、人々の感情は時代やその時の雰囲気に左右されることを良く知っているので、あえてそれに積極的には関わらない。怪しまれない程度に周りの人とは距離を置き、経済的に自立ができる範囲で仕事をし、あとはひたすら自分の時間を消費する。前向きなものは何もないけど、とにかくうまくやり過ごして、自分らしい生き方を継続させる。語り口が巧妙なので妙に面白かった。でも、同性愛者だから特別だったんではないような気がした。人間は一人では生きられないので、属するコミュニティとはどこか折り合いをつけて、うまくやっていかなければならない。多様な価値観を認めないコミュニティも多いし、コミュニティからの追放はそのまま生存の危機に直結するところもある。そして、コミュニティの価値観はうつろいやすい。努力して、理解を求めても、理解されない場合もあるだろうし、理解を得られていたような気がするけど、時代で変わったりしてしまうこともある。だったら、上手く擬態するしかないんじゃないか。コミュニティーと軋轢を起こさないように擬態する。それが自立するため、生きていくための条件だから。なんかそんな風に読めました。それは、多様化した価値観の中で、マジョリティに属せなかった人たちすべてに通用する理屈のように感じました。
