佐々木閑先生の「般若心経」を読みました。それにしても、何も知りませんでした。お釈迦様の仏教と日本に伝わった大乗仏教の根本的な違い。何となく、日本の仏教は中国を経由して、土地土地の道教や神道といったものの影響を受けて変質していることは知っていましたが、ここまで違うとは思っていませんでした。
お釈迦様の仏教では、「われわれが普段、そこに実在すると思っている様々な対象物は、それらを寄せ集めた架空の存在、実態のない虚像であり、真の実在は「五蘊」「十二処」「十八界」の各項目だけである。これが『ここに自分というものがあるという思いを取り除き、この世のものは空であるとみよ』の考え」と整理しているのに対し、大乗仏教では、お釈迦様が真の実在といった「五蘊」「十二処」「十八界」の基本要素に至るまで「実在しない」と述べています。お釈迦さまは「例えば『私』とか『石』とか『車』とかいった存在は、一見すると安定的に常住しているように見えるが、実際は、単にそれらを形成している基本要素の集合体に過ぎないので実態がない。そして常に変化し続けている。それが『空』である。この世に『ある』といえるのは、最小単位の基本要素(「五蘊」「十二処」「十八界」)と、その間に成り立つ法則性である」と述べている。きわめて明快。一方、般若心経では「お釈迦様のいう基本要素自体も実態を持たない架空の存在なのであり、この世を構成している基本要素などない。「五蘊」も「十二処」も「十八界」もない。したがって、その要素間に働いていると考えられている因果則も存在しない。この世はそのような理屈を超えた、もっと別の超越的な法則によって動いている。これが『空』である」と主張している。
また、お釈迦様の仏教では「あらゆる苦しみの根源は『無明(無知=人間の煩悩のうち最大のもの)』にあり、この無明のせいで様々な良からぬことが連鎖的に起こり、最後には耐えがたい『老死』の苦悶に悶えることになると考え、完全に業を滅し、もはや二度と輪廻することのない安らかな『涅槃』に至ることを仏教の至上目的」と考えているのに対し、大乗仏教では「この世で自分がなした善行のエネルギーは、そのまま輪廻の中で使ってしまうのではなく、ぐっと溜め込んでおいて悟りをひらくエネルギーとなり、結果として二度と生まれ変わることのない涅槃に入るエネルギーになるという考え方」になるようです。俗世で行う善行が、そのままブッダになるエネルギーに使えるという考え方です。そして、般若経では「般若経を唱えること」を究極の善行とみなし、般若経を唱えることで、我々は大変なスピードでブッダになることができると考えられているようです。
なんと、なんと、なんとです。まだ理解したわけではないけど、何となく大乗仏教のアウトラインを捉えられたような気がする。大変勉強になりました。
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