りおパパの日記

徒然なるままに。ドトールのコーヒーが好きです。

大乗仏教

本日も佐々木閑先生の「大乗仏教」を読みました。これで、このシリーズの佐々木先生の作品は全部読んだことになる・・・やっと入門の入門が終わりかな。

これは6つの構成になっていて、第1講「釈迦の仏教」から大乗仏教へ、第2講「空」の思想が広がった「般若経」、第3講 久遠のブッダ法華経」、第4講 阿弥陀仏の力「浄土教」、第5講 宇宙の真理を照らす仏「華厳経」、第6講「大乗仏教はどこへ向かうのか」という作り。一連の作品を読んできたので、「法華経」「浄土教」「華厳経」っていうのは新しかったのだけど、違和感なく読んでいけた。いずれにせよ、お釈迦様の仏教は様々な解釈を経て、全然違うものに変質していったんだなということだけは良く判ります。大乗仏教なので当たり前ですが、般若経のところで「正しい行いをしていけばブッダになれる」という方向に変わり、「法華経」では、この考え方をさらに推し進め、浄土教では、さらに変わって「阿弥陀様がいらっしゃる極楽浄土へ往生する」ことに目的自体が変化、アプローチもただ念仏を唱える形に変わっていったという流れ。最後の華厳経密教の形になり、どちらかというご現世利益を目的と考える実利的な仏教に向かっていく・・・という理解をしました。

最後は大乗涅槃経の話。細かいことはさておき、自分にとって有益だったことは禅宗との関係が判ったこと。禅では大乗涅槃経と同様に「私たちの内側に仏性があり、それに気づくことが悟りへの道である」ととらえ、仏性に気づくための修行方法として「坐禅修行」を重視するというところ。「すべての生きとし生けるものは仏性、つまり仏としての本性を自分の中に持っている」という一切衆生悉有仏性という思想と併せて、先日読んだ道元禅師の「正法眼蔵」への接点が見つかったような気がしました。あと、禅とは基本的に書かれた法(教え)や死んだ後の生まれ変わりといったものを重視していないということも何となく今までの曹洞宗との付き合いで感じることでありました。

さて、問題の「自分の中の仏性に気づくこと」とは「主観と客観、自己と世界が分かれる以前の存在のものに立ち戻る」ことを意味し、そのためには思考を内側に向かわせて雑念を払い、本来の自己を見つめなおすことが基本とのこと。道元禅師は「全における坐禅は煩悩を消すための修行ではなく、自分がブッダであるということを確認する作業」と位置付けたらしい。確かにこう整理すると一切衆生悉有仏性の考え、さらには「人は生まれながらにして物性を有していて、初めから仏である」という如来蔵思想と坐禅修行の意味がすんなり通る気がするのだけど、それでいいのかな・・・先日まで当たり前と思っていたこと(煩悩を消すために修行をする)と違うような気がしている。ただ、色々読んでみて確かに勉強になりました。

今のところの自分の理解は、お釈迦様の仏教の起点にある、輪廻や涅槃という考え方は、禅にはあまり受け継がれていなくて、単に自分を客観的に見つめる方法を会得するために雑念、煩悩を払う必要があり、その手段として坐禅がある・・・そして、自分を見つめた先に自分の中の仏性に気づく。すごく単純化してそういう理解をしてみました。

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