りおパパの日記

徒然なるままに。ドトールのコーヒーが好きです。

死の壁

養老孟司先生の「死の壁」を読みました。まず、面白いなと思ったのは、死体には三種類あるという話。「ない死体」「死体でない死体」「死体である死体」。言い換えると「一人称の死体(自分の死体)」「二人称の死体(親しい人の死体)」「三人称の死体」。まず、自分の死体は見えない。だから考えても仕方がない。二人称の死体は死体と思えないということで特別な死体。後は普通の死体という分け方。死体は穢れと結びついていて、暗に「死んだ奴は我々の仲間ではない」という意味合いがあるらしいのだけど、親しい人の死体にはそれが無いということなんでしょう。

そこから、死を考えるときは、一人称の死ではなく、二人称、三人称の死を考えることこそ意味があると先生はいう。実は「人の命は何よりも尊い」という誰もが否定できない真実があるのだけど、絶対の真実を信じる人は絶対の正義を振りかざすのが常で、ただ、脳死安楽死を考える場合、絶対の正義が大きな邪魔をする。世の中にはタテマエとホンネの世界があって、清濁併せ呑むではないけれど、ホンネの世界では共同体のルールとして現実に折り合いをつけてきたのではないかということ。そこをタテマエの世界だけで綺麗に片づけようとすると、そのひずみがどこかに大きく溜まってしまうということなのかもしれない。

先生の主張はこうした二人称、三人称の死は考える意味があるけど、自分の死は考えても仕方がないこととしている。最初は違和感があったのだけど、自分がボケて困るのは家族、自分が死んで後始末をするのも家族。その家族にとって自分の死は二人称、三人称の死であって、やはり考えるべきは二人称、三人称の死とそこから生まれる社会的な問題というのは確かにそうなのかなと思うようになりました。ただ、よく言われているように、死を考えるということは、死ぬまでの自分の生き方を考えるということであり、その点はまた改めて考えるべきなのかなという気がしました。

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