りおパパの日記

徒然なるままに。ドトールのコーヒーが好きです。

熟達論

為末大さんの「熟達論」を読みました。熟達へのプロセスを「遊」「型」「観」「心」「空」の5つに分けて説明。

これはあくまで自分流の解釈だけど、最初の「遊」は何よりも対象に興味を持つということではないかと思った。面白いからやる。夢中になって取り組む。何事もそこから始まる。そして、「型」は読んで字のごとし。基本を型として身に着ける。「型の習得は無意識でできるようになること」というのはなるほどと思った。動作を考えることなく自然と体に覚え込ませるのが型。だからこそアンラーニングが難しいのも納得。次は「観」。ひとつは、自分を客観的に見ること。また、全体を俯瞰したり、部分を集中して観るということも「観」ということ。「型」までは繰り返し繰り返し回数をこなすことで誰もが身に着けることはできると思うのだけど、一度無意識にできるようになったことを客観的に見て分解することが、次の「心」につながる。心は中心の心。型は一連の流れで本来は分解できないのかもしれないけど、その中で基本の基本は何なのかをきちんと理解しておくことは重要。心は変えてはいけないが、周辺が変わるのは個性。心をしっかり捉えて、自分を観察できる目を持てば、おのずと自分の形になるし、それが個性といわれるものになると理解した。最後は空。ここでまた無意識にできることが求められる。それは型というのとは違って、ゾーンに入ること。意識しないで、集中し、自然と最適のパフォーマンスを発揮する状態と理解すればいいのか。多分に仏教的な雰囲気を感じた。(本人は意識していないかもしれないけど)

全体的に守破離の考え方に似ているようにも思ったけど、自分の経験に裏打ちされているので説得力があったかな。それと、興味深い話。

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厳しく𠮟られながら育った人間は、目指すべき標的でなく評価者に注意が向くようになる。・・・最初に「正しさ」から入ってしまうと同じ事が起きる。的に当てることより正しく動くことに意識が行ってしまう。・・・自分を評価しながら思い切り動くことはできない。→この思い切り動くことができない抑制癖こそ最高のパフォーマンスを阻害する。

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よくわかります。