りおパパの日記

徒然なるままに。ドトールのコーヒーが好きです。

アンダーグラウンド

 村上春樹さんの「アンダーグラウンド」を読みました。最近ずっと村上春樹さんの本を読んでいて、かつてから気になっていたけど、どうしても手が付けられなかったノンフィクションである「アンダーグラウンド」を読みたくなりました。今なぜ地下鉄サリン事件のこの本を読むのか判らないけど、恐らくコロナと関係あるんじゃないかなと自分では考えている。そして、小説家である村上春樹さんがなぜノンフィクションのこの作品を作ったのか?やはりそこのところを知りたくなったということがあります。

インタビューは62人に行われて、うち2人は最終的に掲載を拒否されたというような記述があったような気がする。インタビューされた人の体験はある意味途中から予想できるような内容でもあったけど、不思議と飽きることが無かった。それは、その人その人に人生とその時間があって、全く理不尽な暴力に出会って、信じられない被害を被ったという体験とあとは村上春樹さんの筆の力なのかな。インタビューは基本的に手を加えていないということだけど、最初にその人がどういう人で、どういう状況で事件に遭遇したかが書かれている。通勤時間の地下鉄だから、都内で働く人がほとんどなんだけど同じ時間に同じ場所を通過する人たちの様々な人生が簡潔に語られていて、そういう人が事件に遭遇してしまったんだなと、改めて考えさせられた。

この地下鉄サリン事件は大きな事件だったけど、そして毎日マスコミで騒がれていた割には、実は事件自体についての知識は意外に乏しい。記憶しているのは、当日は確か霞が関に資料を借りに行く予定だったけど、朝から慎平君が熱を出して、小児科に連れて行くとかで出遅れてしまったので、予定を夕方にした記憶がある。どっぷりと出遅れて、ずいぶん遅くの出社になったけど、池袋で丸ノ内線は結構混乱していて、「あ~あ」とか思った記憶が。多分池袋に着くまで事件のことは知らなかった気がする。その後テレビでオウム真理教の話は嫌というほど見たけど、地下鉄サリン事件そのものについては、概要しか知らない。

さて、この本を執筆するに至った、村上春樹さんの動機はどこにあったのか?少し引用したい。

・この事件を報道するにあたってのマスメディアの基本姿勢は、〈被害者=無垢なるもの=正義〉という「こちら側」と、〈加害者=汚されたもの=悪〉という「あちら側」を対立させることだった。そして「こちら側」のポジションを前提条件として固定させ、それをいわば梃子の支点として使い、「あちら側」の行為と論理の歪みを徹底的に細分化し分析していくことだった。

・「システム(高度管理社会)は、適合しない人間は苦痛を感じるように改造する。システムに適合しないことは『病気』であり、適合させることは『治療』になる。こうして個人は、自律的に目標を達成できるパワープロセスを破壊され、システムが押しつける他律的ワープロセスに組み込まれた。自律的パワープロセスを求めることは、『病気』とみなされるのだ」

マインド・コントロールとは求められるだけのものではないし、与えられるだけのものではない。それは「求められて、与えられる」相互的なものなのだ。

・自我より大きな力を持ったもの、たとえば歴史、あるいは神、無意識といったものに身を委ねるとき、人はいともたやすく目の前の出来事の脈絡を失ってしまう。人生が物語としての流れを失ってしまう

・しかしそれに対して、「こちら側」の私たちはいったいどんな有効な物語を持ち出すことができるだろう? 麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語を、サブカルチャーの領域であれ、メインカルチャーの領域であれ、私たちは果たして手にしているだろうか?
・あなたは誰か(何か)に対して自我の一定の部分を差し出し、その代価としての「物語」を受け取ってはいないだろうか? 私たちは何らかの制度=システムに対して、人格の一部を預けてしまってはいないだろうか?
・あなたが今持っている物語は、 本当に あなたの物語なのだろうか? あなたの見ている夢は 本当に あなたの夢なのだろうか? それはいつかとんでもない悪夢に転換していくかもしれない誰か別の人間の夢ではないのか?
・自分の中の感情的な算盤を一度すっかり ちゃら にして、しかるのちに日本という「場のありかた」についてより深く知りたかったし、日本人という「意識のありかた」について知りたかったのだと思う。私たちはいったい何ものであり、これからいったいどこに行こうとしているのか?
・自分の感じている怒りや憎しみをいったいどこに持ち込めばいいのか、どちらの方向に向ければいいのか、その確証をうまくつかめないのだ。何故ならその暴力がはたしてどこからやってきたのかという正確な「出所(マグマの位置)」がいまだに明確に把握できていないからだ。そういう意味では──怒りや憎しみの向けようがもうひとつはっきりしていないという点においては──地下鉄サリン事件阪神大震災は形態的に相似している。
・全体的に言えば、現場における営団地下鉄職員の規律ある仕事ぶりと、そのモラルの高さは賞賛に値いする。これらの事実を前にしていると、私たち個人個人が本来的に持っているはずの自然な「正しい力」というものを信じられる気持ちになってくる。またこうした力を顕在化させ、結集することによって、私たちはこれからも、様々な種類の危機的な事態をうまく回避していけるのではないかと思う。そのような自然な信頼感で結ばれたソフトで自発的で包括的なネットワークを、私たちは社会の中に日常的なレベルで築き上げていかなくてはならないだろう。
・私たちの社会システムが用意していた危機管理の体制そのものが、かなり杜撰で不十分なものであった
・当日に発生した数多くの過失の原因や責任や、それに至った経緯や、またそれらの過失によって引き起こされた 結果 の実態が、いまだに情報として一般に向けて充分に公開されていないという事実である。言い換えれば「過失を外に向かって明確にしたがらない」日本の組織の体質である。「身内の恥はさらさない」というわけだ。
・(ノモンハン事件を調べた際に)現場の鉄砲を持った兵隊がいちばん苦しみ、報われず、酷い目にあわされる、ということだ。後方にいる幕僚や参謀は一切その責任をとらない。彼らは面子を重んじ、敗北という事実を認めず、システム言語を駆使したレトリックで失策を糊塗する。

アンダーグラウンド (講談社文庫)

アンダーグラウンド (講談社文庫)

 

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