りおパパの日記

徒然なるままに。ドトールのコーヒーが好きです。

5つの戦争から読みとく日本近現代史

山崎雅弘さんの「5つの戦争から読みとく日本近現代史」を読みました。帯には「自慢」でも「自虐」でもない日本の歴史となっていたけど、個人的には自虐史観に近いのではないかと感じました。司馬遼太郎さんと同じで、日清・日露の頃の日本人は凄かったけど、昭和になって日本はダメになったという感じ。ただ、「国体」「天皇機関説」「天皇主権説」についてはよくわかったような気がしました。 

・この「三国干渉」の結末は、後で述べるように、日本国民に激しい屈辱感をもたらし、やがて日本を「軍備増強」の道へと向かわせることになります。
・伊藤は最後まで、ロシアとの協商による事態の打開という方策に固執し続けました。
・一八六三年にイギリスへと留学した経験を持つ伊藤は、当時の超大国イギリスと新興国日本の総合的な国力差を肌で感じており、イギリスが日本と対等な同盟を結ぶとは信じられなかったからです。
・この「旅順攻囲戦」の勝利は、日本にとって、きわめて意義の大きいものでした。
日本海海戦における日本海軍の勝利は、名参謀と謳われた秋山真之の発案した「丁字(T字)戦法」によるものだと、長い間信じられてきました。しかし実際には、この海戦では「丁字戦法」(軍艦を「T」の横棒の形に並べ、縦棒の形をとる敵艦を、よち多くの大砲で撃つ戦法)は用いられておらず(少し前の「黄海海戦」では使われましたが失敗に終わりました)、両軍の艦隊が並行して同じ方向に進む「同航戦」の形で砲撃戦が行われ、乗組員の練度と兵器の技術力(砲弾の火薬や信管など)に優る日本海軍が、ほぼ一方的な勝利を収めたというのが真相でした。
・ロシアの南下を阻止したいイギリスはもちろん、満洲の利権を日本に独占させたくないアメリカや、ロシアで革命が起こればヨーロッパにも混乱が波及すると危惧したドイツ、ロシアと関係が深いフランスなども、日本がロシアに「勝ち過ぎていない」現状で戦争を終結させることが、自国にとって利益になると判断していました
・米英両国から見た日本は、日清戦争から第一次大戦およびそれに続くロシア内戦までの間は、ロシアやドイツといった対立・競合勢力を東アジアで牽制してくれる新興国という位置づけでした。しかし、ロシアが革命と内戦を経て「ソ連」に体制変更し、ドイツが第一次大戦で列強の座から一時的に外れると、米英にとっての日本は、東アジアの権益を争う「ライバル」という存在に変わりました。
張作霖を個人的に信用していた田中首相とは異なり、関東軍の上層部は「張作霖は日本を裏切って欧米に寝返った」と見なしており、「彼の奉天帰還を容認すれば、今後の満洲利権をめぐる交渉で日本が不利になる」との独断に基づいて、田中首相と内閣の許可を得ることなく、張の暗殺計画を実行しました
・この「国際連盟の脱退」という決断は、連盟を脱退してしまえば「連盟規約に基づく経済制裁」は発動できなくなるだろう、という日本の外務省による場当たり的な判断だったとされています。
・日清・日露戦争が行われた明治時代、日本政府と日本国民は「国際的ルール」を守ってその枠内で大国になろうと努力しましたが、昭和初期には次第に、国際社会での協調よりも「日本の利益」を追求する方を優先すべきだという風潮が広がり始めます。
・国体とは「日本が他国よりも優れていることを示す、独特の性質」や「日本という国の他国とは異なる成り立ちを示す概念」を言い表す語句として用いられましたが、その根拠の中心には常に、天皇という絶対的に崇高な存在がありました。
・社会構造のピラミッドの頂点に天皇とその祖先を「絶対的に神聖な存在」として位置づけ、天皇を際限なく賛美することによって、そこに繋がる日本人全体が「優れた民族」であるかのように理解する考え方は、明治時代に創り出された「国家神道」と呼ばれる政治システム(神社神道皇室神道を中心として構築された価値体系)が行き着いた到達点でした。
戊辰戦争江戸幕府が倒れて、伊藤博文らを指導者とする明治新政府ができた時、彼らは自分たちが日本全体の統治者としての正統性を著しく欠いていることを自覚していました。
明治新政府は自分たちが「正統な日本全土の統治者」であることを権威づけるため、天皇という存在に着目しました。
明治新政府は、近代国家としての日本をスタートする際、ヨーロッパの君主国を手本にしながら、明治天皇を日本の「民衆の心を捉える全国レベルの指導者」として担ぎ出しました。
天皇機関説とは、国家を一つの「法人(組織)」と捉えて、君主である天皇はその法人を構成する「最高機関」だと位置づける考え方です。この解釈では、天皇絶対王政の君主のように万能の私的権力を持つ存在ではなく、あくまで憲法の枠内で(形式上は国家に属する)統治権を行使する存在であると規定されていました。
天皇主権説は、神の子孫であり、なおかつ「現人神(人間の形態をとって現れた神)」である天皇は、憲法のような「人工的な枠組み」に囚われることなく、超越的に統治権(主権)を持つはずだとの認識に立っており、憲法を近代国家の基盤とする「立憲主義」にも価値を認めてはいませんでした。
明治憲法が制定された当初は、後者の天皇主権説が優勢でしたが、西欧諸国の議会制度や立憲主義の研究が日本で進むにつれて、主権説では憲法との整合性に齟齬(不一致)が生じることが判明しました。そのため、明治後期頃から昭和初期までは、前者の天皇機関説が日本の政界や学術分野での認識の主流となり、昭和天皇も「天皇機関説の解釈で何も問題ない」と了解していました。
・昭和初期の一九三〇年代前半に、日本国内で「国体明徴運動」と呼ばれる思想的な運動(後述)が高まると、天皇主権説を支持する勢力は、天皇機関説の主な理論的提唱者であった法学者の美濃部達吉に対する政治的攻撃を開始し、政界と学術分野、そして日本国民の思考から、天皇機関説を排斥することに成功します。
天皇機関説の『機関』という言葉が誤解されているようで残念だ。その意味するところは、天皇は私的権利として統治権を保有されるのでなく、国家の公事として効力を持つことを言い表すもので、決して天皇への不忠や不敬を意味する考え方ではない」
天皇機関説は、天皇が近代国家の枠組みを逸脱するような形で際限なく神格化されたり、天皇の権限や権威が無限に拡大解釈されたりすることを防ぐための、いわば「リミッター」の役割をも果たしていたのです。 それが天皇主権説派によって壊されたことで、天皇立憲主義を繋ぐパイプが失われ、日本の政治システムにおける天皇の存在は、リミッターを失って際限なく神格化されるようになります。天皇の権限や権威の及ぶ範囲も、事実上無限に拡大していきました

5つの戦争から読みとく日本近現代史――日本人として知っておきたい100年の歩み

5つの戦争から読みとく日本近現代史――日本人として知っておきたい100年の歩み

 

 [DATA]

今月の読書 6冊

1月からの読書 65冊