りおパパの日記

徒然なるままに。ドトールのコーヒーが好きです。

終の信託

予定通り、奥さんと「終の信託」を見てきました。ストーリーは基本的には原作通り。でも周防正行監督らしく、最後の検察の取り調べは、検事のいやらしさが出ていて、彼らしい主張があったように思います。ただ、大沢たかおさん扮する検事の発言を聞いて、尊厳死、あるいは安楽死の条件というのはとても難しいものだなと思いました。まず、一番重要と考えるリビングウイルの問題。この本を読んだ人は、あるいはこの映画を見た人は、役所浩司さん扮する亡くなった江木という患者と、草刈民代さんが演じる医師の間には自らの死に際を委託するだけの信頼関係ができていたと感じると思いますが、一般論からいって、親族ではない他人に自らの死の時を信託できると考えることは難しいのでは?と思ってしまいました。特に相手は医師。倫理的にいっても、医師は延命することこそ医師の使命と思っているところもあるでしょうから、その時を判断させると必然的に遅れるのではないかと思うのが一点。あとは自らの死の時を信託するということは、自らの死に立ち会ってほしいという意思があり、それは長く連れ添った伴侶にこそ求められることで、親族だからと言って、誰にでも託せるものではないような気がします。ましてや、他人にそれを委託するというのはとても難しいような気がしました。まあ、そういう当たり前の考えを超えた信頼関係がこの医師と患者の間に築かれていたというのがこの話のポイントなんだとは思いますが・・・
それから、この話は実話がベースにあることは知っていましたが、映画のラストでそれがどうなったかを告げるテロップが流れました(ここまで作りものかもしれませんが)。このテロップによると、裁判では、江木が残した「ぜんそく日記」に自らの死の時を折井先生に託していることが記されており、リビングウイルについては裁判上も認められたが、尊厳死、あるいは安楽死の条件となる、残り2つの要件、1)死が避けられない状況であり、2)身体的な苦痛が耐えられぬ状況であるという条件を満たしていないということで、懲役2年、執行猶予4年の有罪になったとのことである。正直、これはやむを得ないかなと思いました。そもそも1)死が避けられない状況・・・っていう判断は非常に難しい。明日まで持たないという状況であれば、そうかもしれませんが、明日なのか1週間後なのか、場合によっては何週間も生きるのか。そういう植物状態の患者に、死が避けられない状況という判断をどうすべきなのか。2)の耐えられない身体的苦痛もそうだ。患者が生きようとするとき、何を持って「耐えられない」と判断するのか。その曖昧な基準の中で誰もが納得する答えを出すことができるのか。とても難しいと思いました。確かに映画では検事との間にこうした伏線がいくつもありました。深いですね。でも、折井医師の立場になったとき、やはり自分の意思で患者を苦しみから解放してあげたいと思う気持ちは自然のような気もするし、とても奥深いと思いました。