りおパパの日記

徒然なるままに。ドトールのコーヒーが好きです。

考察する若者たち

三宅香帆さんの「考察する若者たち」を読みました。冒頭出てくるのは「報われ消費」と「最適解」という言葉。そして、考察と批評の違いについて、以下のように述べている。考察とは「作者が作品に仕掛けたものとして謎を解こうとする行為」。批評とは「作者すら思いついていない作品の謎に対して解釈を提示する」こと。考察には正解があって、批評には正解はない。言い換えると、考察 =作者が提示する謎を解くこと であり、批評 =作者も把握していない謎を解くことと定義される。そしてこの場合、正解を当てる事が報われることになるらしい。実はここからが面白い。少し前に流行った「親ガチャ」という言葉にも通じるけど、努力が必ずしも報われない時代。本人の努力よりも、どんな環境に生まれ、どんな才能を持って生まれるかで人生が大きく左右される今日、SNSで「いいね」をもらうように自分の行動がちょっとした周りの反応という形で報われたいという欲求に変わっている。そして、インターネットとAIの時代は、いいねをもらうためには多くの人がいいねと反応する最適解を提示することが必要。だから、自分の意見や感想よりも正解を提示することが求められる。今の時代は、自分らしさよりも自分がどういう反応を示すと周りの人と軋轢を生まずに安心して「いいね」をもらえるかが大事なんですね。報われるというより、自分の居場所を確保できるということなのかも知れない。もう一つわかったのは、自分を囲む世界。これはNEXUSからの引用になるのかも知れないけど、インターネットでグローバルに広がったかと思えば、AIが作るアルゴリズムのおかげでスコーンになっているという事実。宗教がわかりやすいが、宗教の数だけ正解がある。アルゴリズムはそのスコーンの中での正解を提示するわけだから、スコーンが異なれば正解も変わる。これ、朝井リョウさんが「イン・ザ・メガチャーチ」で書いていたことと同じだ。推し活、ファンダムの中で、ファンダムの中でしか通用しない価値観、それはぐっと視野を狭めることなのだけど、そういう価値観の中で受け入れられる判断の中で過ごすことは、限りなく心地良いということ。繋がった。AI、アルゴリズムが普及する中で、若者たちは自分の居心地の良いスコーンの中で、居心地良く暮らすために、常にどう振る舞うのが正解なのかを求めているという事なのかも知れません。会社で、異なるコクーンに属する若者をチームワークとかいって理解しようとすることが無理なことなのかも知れません。
三宅さんは、ノイズ=スコーンの外側の価値観に触れることとそこから生まれる批評の大切さを述べているけど、それはちょっと違うのかも知れない。