りおパパの日記

徒然なるままに。ドトールのコーヒーが好きです。

菩提寺役員会

午前中は親父さんの見舞い。午後からみっちり菩提寺の役員会。11日の檀家総会に向けての最後の打ち合わせ。ここ何年も課題となっている墓域整理と萬霊塔問題。その背景にある擁壁工事。なかなか説明が難しい。当初の目標だった2億円の寄付金が集まっていれば全然問題はないのだけど、実は半分も集まっていない。半分のお金でできることを考えると、当たり前ですが妥当性とか費用対効果みたいな話で、何を優先して何を諦めるかが問題になる。ただ、こうした経済合理性と宗教的価値観はどうしても相いれないところがあって、そもそも先祖供養とは・・・ということを考えることになります。

ここからは私見。お寺の役員としては苦しいところもあります。

そもそも、お釈迦様が始めた仏教の原型では輪廻転生が前提。解脱をしない限り、人は死後49日で別の存在として誕生、あの世は存在しない。ただ、寺の中心行事でもある盂蘭盆會や彼岸はあの世が存在して、そこから時々この世に戻ってくることが前提となっている。調べてみると仏教伝来の過程で中国を経由するあたりから、仏教には中国の儒教というかシャーマニズムのような先祖崇拝の思想が組み入れられてくる。そもそも、日本の古来の自然宗教では先祖崇拝があって、そこに中国から入り込んだ儒教的要素を持った仏教がとてもフィットしたということみたいだ。

それと、日本人は昔から死というものをとても穢れたものとみなしていたようだけど、死後まもない魂(新魂=荒魂)は穢れが多く、そのままにしておいては祟りやすく恐ろしいものとて、一定の場所に封鎖鎮魂しておく必要があったと考えられていたようだ。鎮魂し、祀り上げることで魂は浄化され、やがて仏となり子孫を見守るようになるというといいすぎかもしれないけど、考え方としてはそんな感じ。

儒教的要素で、先祖供養を考えると、一番の矛盾は骨や墓への執着といわれるけど、この日本の荒魂の鎮魂的要素が加わるとそれも理解できたりする。

もちろん、先祖がいて今の自分がいるわけだから、単純に祖先に感謝するというので良いのかもしれないけど、そして、もちろんそれが根本の自然宗教的先祖崇拝なのかもしれないけれど、荒魂説があって骨や墓へのこだわりを理解すると、何となくだけどお寺の考え方というか所謂山門行事が理解できたような気になる。もちろん、住職とはそういう話はしないのだけど・・・