りおパパの日記

徒然なるままに。ドトールのコーヒーが好きです。

ぼくらの哲学

 青山繁晴さんの「ぼくらの哲学」を読みました。今年の記念すべき100冊目は青山繁晴さんの本でした。今年買った本のリストを見てみたら、134冊。意外に読了した本が多い年だったような気がします。

さて、この本。沖縄のことを中心にいつもの青山節がさく裂します。ただ、普通のマスメディアが書かない、青山さん目線の真実と考えが述べられていて、読んでいて確かに目から鱗のようなことがたくさん。そして、それを前提に自分で事実を見、考えなければと思わせてくれる本です。何となく新聞を読んで判ったようでわからないこと。そういうことに気づかせてくれる本だったと思います。非常に勉強になりました。あと、kindleは凄く便利なのだけど、この本を整理してみて、やはり紙の本で読んで良かったなと思いました。ハイライトしたところ・・・やはり大事なのだけど前後をよく見て確認したい。そういう時、確かに紙の本の方が明らかにアドバンテージがあります。

・「武士道といふは死ぬことと見つけたり(葉隠)」この一説は、死ぬことを語っているのではなく、「生きよ。人のために生きよ」と言っているのです。

・敗戦後の日本は予定調和といってもよい。芸能プロダクションとテレビ界は徹底的に癒着している。そのような癒着は、マスメディアだけでなく巨大な既得権益を形成して政官財界まで繋がり、私たちの祖国をすっぽり覆っている。

・政府の沖縄政策とは、西暦1945年3月から6月の沖縄戦での被害者は沖縄県民、加害者はそれ以外の日本国民という敗戦後に作られた構図に基づく「沖縄振興」である。・・・沖縄戦は「沖縄県民は斯く戦へり 県民に対し後世特別のご高配を賜らんことを(大田実海軍少将)」の快別電文で徹底的に、フェアに批判なさったとおりだ。と同時に、沖縄を護るために全国から国民が駆け付けた戦いでもあった。

沖縄県民を被害者、それ以外の国民を加害者に分断する歴史観ではいつまでもカネが被害者の求めに沿って流され、沖縄経済の自律はなく、経済の自律がなければ、拝金主義の中国からの誘惑に翁長雄志知事を含めて引っ張られるだけだ。

大日本帝国憲法第十一条に「天皇は陸海軍を統帥す」とあるが、統帥とは指揮ではない。日本は、日清、日露、そして大東亜戦争と大戦争をずっと戦いながら、誰が開戦の権限を持つかの定めがなく、いったん開戦すれば即、終戦の決断がもっとも大事になるにもかかわらず、その定めもなかった。

・第九条を含めて日本国憲法の条文には国防の全否定だけが書かれていて、「では国民をどうやって護るか」は一箇所も、一字も、そう一字も書かれていない。・・・前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。すなわち、われら日本国民は家族も、友達も同胞のおのれでは護らず、互いに護られず「諸国民」に護ってもらうのだ。では、その諸国民とはいったいどこのどなたなのか。

・「朝日はやっぱり、人民日報の東京版ですね」(日本政府の情報機関)

・翁長県政が目指しているのは、海兵隊辺野古に移すことを拒むだけでなく、反米軍運動を盛り上げて、日米同盟を沖縄では空洞化することにあると疑わざるを得ない。

・日本のマスメディアが「テロリストにも言い分があるから対話せよ」という、あまりにも愚かな誤りを広めるのを、まず視聴者・国民の声で止めねばならない。・・・「テロリストと話し合え」といった瞬間に日本の国際連携は失われる。世界の非常識そのものだからだ。

安倍総理にとって、日韓合意も改憲も、そしてTPPもみな「日米対等。それによる敗戦国からの脱皮」への手段なのである。

・今の翁長知事は何をなさっているか。例えば「龍柱」です。中国の石材を使い、中国の業者に公金を支払い、那覇空港から那覇市内に通じる沖縄の玄関口に、龍の柱を立ててしまいました。これは中国の皇帝に冊封された地であることを象徴する意味を持ちます。

・恋の至極は忍恋と見立て申し候(葉隠

ぼくらの哲学

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