りおパパの日記

徒然なるままに。ドトールのコーヒーが好きです。

納棺夫日記

青木新門さんの「納棺夫日記」読みました。
青木さんは、ある種の偶然から死者を棺に納める仕事を選択し、続けてきた訳ですが、当然こうした仕事に対する偏見があり、そして、それを家族からも向けられる辛さがあったわけですが、こうした厳しい環境の中で、黙々と仕事を続け、文学や宗教に関する造形を深め、宮沢賢治親鸞に導かれるように「光」を見いだしたのかも知れません。
ちょっとうまく消化できていないですが、増補改訂版だからこそあると思われる「納棺夫日記を著して」に出てくる、正岡子規の「悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった」は考えさせられました。ある日突然「末期ガンです」と宣言されて、平気で生きていられるだろうか。
人が死の概念の真の回答を得るには、自らが死に直面して体得するか、あるいは如何なることがあっても平気で生きている人(人間はそういう人を菩薩とか聖人と称してきた)から直伝されるかしかない。
そして、もし生者がその真理を体得するなら、永遠の中の一瞬の人生が、どれほど大切で、どれほど尊いかを実感する。と同時に、活かされて生きていることが喜びとなって如何なる場合でも平気で生きてゆくことができるようになる。そのことが、仏教のいう<悟り>なのだと思うようになったと著者はつづっています。
もう一度きちっと読みたいと思います。

納棺夫日記 (文春文庫)

納棺夫日記 (文春文庫)

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2008/11/03セミナー終了後の活動

1)Photo Readingのみ 8冊(2冊×4回)

2)PR+活性化 27冊